雪が騒音を消す。
全てのものが沈黙し祈りを捧げる。
忌まわしき御子が馬屋で生まれた日、私が暗く深い劇場に幽閉された日。
低く、深く、澄んだチェロキーリリックが雪と共に街に降り注ぐ。
戦渦を知らず、絶望を知らず、希望もなく、平和ですらない小さな町に響く魔女の賛美歌は空が白むまで続いた。


それは、忌まわしき神の御子を讃える歌。




Amazing Grace




■D&V■

「お前のそれはどうにかならんのか」
バタバタとあちらの部屋からこちらの部屋へ、向こうの事務所からこの洗面所へ、愚弟が目を剥いて走っている。
「飛行機が着いちまう!」
その前にバスに乗り遅れるだろう。この時期から年が明けるまで、空港の混雑はピークに違いない。
「貴様が早く起きればいいだけだろうに」
しかし通算12回目のアドバイスはやはり愚弟には届かない。聞いているのかもしれないが、多分もう片方の耳の穴からスルーに違いない。
今宵。クリスマスイヴ。
自分が知らない間に増えた家族が一人、帰ってくるのだという。
兄弟を持った覚えはないが、年上の愚弟はかなり悩んだ末に「まあなんつーかポジションとしては多分、姉だ」と言った。そういわれて記憶の片隅にぼんやり輪郭がある人影がちらつくが、そのイメージは鮮明になることが無い。それが何を意味するのかは、今なら何となく分かる。
黒は縁起が悪いとの事で回避していたはずなのだが、どうにもデザインにやられてしまって結局ローンを組んでしまった上等の黒いコートはきっとこの日のために買ったのに違いない。赤いマフラーはしっかりとその中へ、手袋はいつもの革ではなくニット。こいつは意外にも寒いのが嫌いだ。
空港は警備が厳しいから武装はしない。
「じゃ、行ってくる。ケーキ頼むな」
「ああ」
限りなく自然な会話。どちらも意識していない、普通の会話。それが出来るようになったのは、実はごく最近のことだ。
一度はドアをくぐったダンテが横の窓から顔を出す。
「そうそう、そうだ」
「何でもいいがお前、時間無いんじゃないのか」
「いやこれだけ、頼むわ」
あのさ、とダンテが口走った用件に眉が寄る。
「貴様の使い魔だろう」
「なーんか、元気ないんだ」
だから頼むわ。
こちらが返事をする前にダンテは角に消えた。
取り残され、バージルは呆然と愚弟が消えた曲がり角を見、一体俺にどうしろというんだと一人毒づく。
ふう、と溜息が出た瞬間、唐突に背後に間の悪い気配。
「なあに?」
「!!」
努めて無表情に、それは成功。でも息は詰まった。
「驚かなくったって…もう慣れたらいかが?」
いかがと言われても困る。
滴る血のような髪、夜の色と同じ藍の肌、女王のプライドと娼婦の艶やかさの両方を備える金色の瞳。夜魔ネヴァン。
なんと答えていいものか、しかし向こうはそ知らぬ風を吹かせてしげしげとこちらの顔を覗きこむ。
「輪郭はパパ、でも目はママね」
「…は?」
「坊やはちょうど逆。顔はママなんだけど目だけはすごく悪魔って感じ!」
なんというべきか、これは。
親戚の叔母か、両親共通の友人が言うような台詞だと思うが。
「知りもしないことを言うな」
「あら失礼しちゃうわ!坊やたちのママとアタシ、結構仲良くやってたのよ?」
ネヴァンは悪魔らしからぬ、悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
まるで人間と話をしているような錯覚に見舞われてこめかみが少し痛くなる。中途半端な知り合いはどういうわけか神経を使うようだ。
「証拠に、ほら」
右掌を一振りすれば、その中には古ぼけて茶色くなった写真が一枚。
写真を撮った覚えくらいはあるが、それは多分あの人生最悪の日に残らず燃えてしまったに違いない。もしかしたらダンテが一枚くらい持っているかもしれないが、おそらくそれは無いだろう。
事務所の黒檀の机に最上級の敬意を払って飾られている母親のあの写真を見れば、奴にそんな余裕があったとはどうしても思えない。
写真に目を落とし、口元が引き締まるのを感じた。
写っているのは三人。
聖母のような笑みの母、厳しい顔は緊張が原因らしい父、そして今まさに湛えているような妖艶な笑みの、この悪魔。
それより気になったのは、愚弟の持つそれよりもずっと古い型のフォトグラフ。今にも破けそうだ。本人にしてみれば大事に保管しているのだろうが、痛み具合からするに出来る限りはやく写真立てなりアルバムなりに入れなければ、おそらくこの紙切れが本当の意味でゴミになるのはそう遠い未来の話ではない。
「……フム」
ちらりと母の、黒檀の机の上で微笑む母に視線で伺いを立てる。
古き慣習と常識から察するに、沈黙は肯定だ。
続けて懐かしむように写真を眺めている魔女を見る。
「……フム」
もう一度同じ感嘆詞。そしてコートを取りに自分の部屋へ足を向けた。