■S&E■

貧乏になって良かったことは、色々ある。
毎日の生活は苦しくても、それでも毎日色々な発見があるからだ。
安物のコートは雪の舞う季節では心もとないが、それでも心まで凍えてはいなかった。
治安の悪い路地を足早に歩く。今働いている店は結構長い。彼是三年目になる。
(あの人と別れてから、五年経つわけね)
自分は変わっていないという自負があった。
彼もそうだろうか?
「よぼよぼになっていたら面白いわ」
もうすぐクリスマスイヴ。多分あともう一時間も無いだろう。
ビニルの鞄のほかにもう一つ、マスターがくれたクリスマスケーキ。
ワンホールも貰ったところで一人で食べるには多すぎた。
あんなに嫌だった両親が死んで自分だけで生きてきたこの5年間、それでも生まれた頃から両親がいない人など履いて捨てるほどいるのだと分かったし、明日食べるものだって無い人だっていることも知った。
それでも誰かと一緒にクリスマスを過ごせないのは寂しいことなのだろう。マスターはきっと私がこれからパーティに行くと思ったのだ。
無駄遣いできるお金など1セントだって無かった。
路地から通りへ。歩く人もまばら、この日ばかりはホームレスも見当たらない。
ショーウインドウできらきら光るツリーに少しだけ見入って、また歩き出す。
ギュウギュウと雪を踏む独特の音だけが通りに響いていた。
曲がり角に差し掛かったとき、細く高く、悲しみに溢れた歌が耳に入ってきた。

アメージング グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

ホームレスの少女だった。ボロボロのワンピースに新聞紙のショール、足に至っては裸足だった。
褐色の肌の少女はその大きな黒い瞳で私を捉える。
小刻みに震える肩に雪が積もっては溶けて、新聞紙が黒く濡れていた。
「………」
見ないように。
視線を振り切るようにして横切った。
視界の片隅に映った少女の顔は落胆でも絶望でもなく、相変わらずの悲しみだけだった。

神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから私の心を解き放ちたもうた
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

続けられる歌声。
きっと誰か他の寂しい人間が、あなたを暖かい暖炉の傍へ連れてってくれる。
いや、多分それは有り得ないのだろう。
彼女はきっと数ドルでその身を誰かに売り、屋根と暖かい寝床を確保することになる。
「……」
無駄遣いできるお金など1セントだって無かった。
薄っぺらな財布に何が出来るっていうの?
くるりと踵を返して少女の目の前に立つと、手に持っていたケーキを足元に置き、財布の中に入っていたありったけの紙幣を抜き出して彼女に握らせた。
これでもう、今日は空腹で寝られまい。でもそれでもいいと何故か思えた。
ケーキもそのままに。はやくその場を立ち去りたかった。
「happy holidays」
たどたどしい英語が背中に投げかけられる。
happy holiday。この言葉は思ったより効いた。
振り向いて『どの神だって同じよ!だってあなたを救えない!』と叫びたかった。
あの時の私なら、迷うことなく言っただろう。

やっぱり、人は変わってしまうのだ。

変わらないということが人間にとってどれほど難しく、厳しいことなのか。
刹那のような命。
早く来て。でないと私がよぼよぼのお婆さんになってしまう。
そしたら貴方は何て言う?一緒によぼよぼのお爺さんに化けてくれるのかしら。
それとももう、私のことなんて忘れてしまっているのかな。
街灯が切れ掛かった角を曲がった。
人っ子一人いない大通り。枯れ木に付けられたイルミネーションが煌いている。
それに比べて大分見劣りする街灯の上にまるで玩具の様に綺麗な姿勢で立つ紳士が一人。
優雅に腰を折り銀髪の頭を垂れた。
「Buon Natale. Giovane signora scortese」
一礼してそう言うとおどけた様に少し笑う。
足をクロスさせ屈み、バレエのような返礼をすれば、もう自然と笑みが止まらない。
「Buon Natale. Sig. diavolo!待ちくたびれちゃったわ!」
あの黒い翼は見紛うはずが無い。
ふわりと羽ばたかせた翼、積もったばかりの雪が舞い散る。
降り立ったと同時に私は彼めがけて渾身のダイブをかました。




そして世界で一番奇妙で素敵な矛盾が始まる。