暗く深い水の中のような闇の中。
本の古紙の匂いとカビの匂い、あとは砂のざらざらした感じ。
街中、全てを圧倒して建てられたその塔の中に、不思議にも書庫がある。
一体誰が何の目的で集めていたのかは今となってはもう分からない。それらが眠る棚の一つに背を預けて涙をこらえてもうどのくらいたったのだろうか。
半魔の彼はとうに上を目指して行ってしまった。弱く脆い人間の私は彼に何が出来たわけでも、何をしてあげられたわけでもなく、ただこうやって自分と自分のこれからを考えてじっと何かに耐えるしかない。
私はこれからどうすればいいのだろう。
何ができると言うのだろう。
何も出来ない気がする。もう指の一本も動かしたくない。否、動かしたくないのではなくて、動けないのだ。このまま一番最初に入ってきた悪魔に頭から食べられてしまうのか。それも、嫌だった。
「・・・・・・」
気の無いため息ばかりが出てくる。このまま時間が止まってしまったらどうしようなどと非常に意味の無いことまで悩みだす始末だ。

「お前は一体何に怯えている」
「!」

急に現れた気配に顔を上げればそこにはあの冷たい眼差しがあった。
目立つ外傷は無いものの、顔には疲れが見て取れる。疲れ、というかこれは・・・そう。

「アンタこそ、一体何を怖がっているの?」
「・・・!」

何かに怯えているのはお前の方だ、と。
私は精一杯の顔で睨んだ。全ての現況は彼と彼の血脈によるものなのだ。
そしてもう一人の彼を苦しめているのも、他ならぬ彼である。
全てのものを背負った彼に、これ以上何を怖がる必要があるというのか。恐れるくらいなら、全てを壊す覚悟が出来ていながら、どうして。
私は彼を見つめる。私の鼻先、一インチも無い所には薄い片刃の切っ先が静止していた。
不思議と全く恐怖は無く、寧ろ倦怠感の方が勝って私は再び頭を下げて膝を抱えた。

「そうやって何もかもに刃を見せて牙を剥いて心を閉ざして、それで何が出来たっていうのよ」
「黙れ、人間風情が」
「そう・・・自分すらも拒絶するのね」
「黙れと言っている!」
「吠えるのも弱い犬みたい」
「・・・ッ!」

刃が退かれるのが分かった。納刀する音と怒りを逃がすため息。
そして少しの間。

「・・・じきにここにも悪魔が来る」
「そうね」
「魔界への門が開けばこの塔は崩れるはずだ」
「ふぅん」
「それまでにここから逃げろ、いいな」

『逃げろ』。
『お前には無理だ』。
まったくこの双子は面白いことを言う。
私は顔を上げた。
苛立ちと焦燥と少しの迷いが人間にしては奇麗な顔にマーブル模様を描いている。

「『逃げる』?」

私は笑った。

「何処へ?」

引きつっただけかもしれなかった。

「馬鹿ね」

ついさっきまで同じことを考えていたはずなのに。

「逃げたらもっと辛いのよ」

彼が目を細めた。
切れ長の瞳が刃の代わりに私を縦に斬る。
詰めていた息を吐いたらしい彼は、諦めたように言った。

「好きにしろ」

そして少しだけ、ほんの少しだけ口の端で笑った。

「馬鹿な奴だ」
「お互い様にね」






タイムセイ、グッバイ







「・・・・・・・・・」
何故。
(すごい。・・・本当に昔のことって夢に見るんだわ)
壁に掛けられた時計は深夜の二時を指している。
カーテンの向こうはまだ夜だ。風が強いのか、雨戸がガタガタと鳴っている。遠くで雷が光った。
朝は雨かもしれない。
「・・・・・・・・・」
悪夢を見た後の徒労感や発汗は無い。限りなく自然に浮上した意識に逆に不安が過ぎる。
(ダンテ、仕事かしら)
数日前に彼の事務所で小火騒ぎがあったと聞いた。主人である彼は幸いにして留守だったらしいが、その後消息を絶っている。
悪魔狩人なら数日にまたがる狩りもさして珍しいものではない。しかし彼の事務所無いで灰になっていた自動二輪や空の薬莢がそこでどうやら一悶着あったことを知らしめていた。
稲妻が走る。光がカーテンの間から一瞬の影を作った。
窓の外で何かが横切る、その影を。
「誰かいるの?」
これも仕事上だが、恨み憎みなどは日常茶飯事だ。だから寝込みを襲われたって文句は言えない。
ベッド横の引き出しからコルトを取り出した。
羽毛布団をどけてそっと窓に近づく。
スリッパははかない。イザと言う時に動きを鈍らせてしまうから。
出来るだけ音を立てないように遊底を引いた。カチリと音が鳴るが、これは仕方が無い。
三度雷鳴。何故だか息が詰まった。
私はカーテンをめくる為に手を伸ばす。
「・・・ダンテ?」
馴染みのある気配がして思わずそう呟いた瞬間、一際大きな雷鳴が響いた。
「!!」
ガタン、と施錠してあるはずの窓が開いて入ってきた風がカーテンを翻す。
反射的に目を瞑り腕で庇う。質量を感じる何かが風とともに私の横をすり抜けて言ったような気がした。
窓の外は分厚い雲。夜である故余計に厚く重たく見える。近くの街路樹が心細そうに風に煽られていた。
私はしばしその様子を呆然と眺めていたが、唐突に自分以外の気配が消えていないことに気が付いた。それも、自分の背後に、だ。
私は振り返る。それと同時に雲が切れて月が顔を覗かせた。
街灯と月光が夜であるのにいやに明るく室内を照らした。遠くで雷鳴が木霊する。
「・・・うそでしょ」
そこには馴染みの彼ではなく、彼に酷似したもう一人の彼が、いた。
「・・・バージル?」
黒い大きな甲冑で首から下を鎧っている。銀色の髪は後ろへ撫で付けられているのは昔と変わらない。しかしその顔は肉が削げ、生気の無い顔は青白く冷たかった。
人間を憎むがゆえに人間らしくてならなかった彼ではない。ここにいるのは本当の悪魔のような男だ。これは彼じゃない。これは―――亡霊だ。
「あなた誰?」
コルトを突きつけて詰問する。しかし彼はそれとは裏腹に表情を緩めたので私はますます混乱する。
彼は甲冑を軋ませて一歩前に出た。私はトリガーに指を掛ける。
「動かないで!それ以上近づいたら撃つわ」
それでも黒い騎士の彼は止まらなかった。
あっという間に距離が縮まりゼロになる。私は抱きすくめられていた。
鎧は金属ではない感触で、ひんやりとしていた。余りに突飛過ぎて思わずコルトをごとりと取り落としてしまう。
致命的ではあるはずなのに、私は何処かで安堵していた。
しばらくそうやってされるがままになっていたが、彼がゆっくりと身を引いたので私も顔を上げた。
彼の顔色はいよいよ悪く、蒼白と言うよりもはや土気色だった。頬に触れれば、鎧と同じくらい冷たかった。

「なまえを」
「・・・え?」

彼は頬に当てられた手に自分の手を重ねながらゆっくりと言う。

「おまえの、なまえがしりたい」

おしえてくれ、おまえのなまえ。
捨てたはずの名前は、忘れたわけではないがしかし。
重ねられた手が離れる。自分の手の甲についたそれを見て私は息を飲み込んだ。
べったりと血糊がついている。それらが筋を作って手首を流れていく。
彼を見れば、申し訳なさそうな、苦笑。そんな顔が出来たのか。

「たのむ。じかんがないんだ」
「!」

私は躊躇う。
唇がわななく。これは、このことは、ダンテは知っているのだろうか?
月が霞みがかる。カーテンが揺らぐ。

「―――」

私が名前を言うのと同時に雷鳴が鳴った。
とても満足げに彼が笑った。

「È un buon nome.」

私はその意味を漸く、知った。
溢れる涙で満足に彼を見ることが出来ない。


「待って!駄目!」
「すまない」

謝られるくらいなら、会いたくなかった。
そうすればずっと、信じていられたのに。
ずっと、何処かで、きっと、なのに。
雲が月を隠す。闇が濃くなる。
彼が見えない。
雷鳴がバージルの言葉をかき消した。口の動きが一番聞きたくない一言を形作る。



『さよなら、メアリ』








風がその重たい空気を入れ替えようと躍起になっている。
月は再び厚い雲の向こうへ。街灯の暗い光が月の代わりに世界を照らしているけれど、誰かが作ったその光は硬く冷たく、世界を包み込むには到底足り得なかった。
ゴロゴロと雷は遠くへ流れていってしまった。ざわざわと密やかに騒々しい街の喧騒が戻ってくる。
何も変わりはしない。変化などと言うものは人間が自分たちで作った区切りでしかなく、その区切りも目安でしかない。
しかしそれでも今とさっきとでは世界の明るさが、色が、全てが、似て非なるものだった。
コチコチと秒針が振れる音が、紀元前と紀元後を別けるように小さな溝を作っていく。
溢れる涙は当分止まりそうになかったけれど、辛うじて『馬鹿』とだけ言った。



***

呼ばれたくなど無かったのに。