「……」
「……」
黙々と歩く背中を眺める。
着痩せする背中は実は大きいことを私は知っている。
ちょっと大きめの歩幅も、ぴんと張った背骨も、日常においてすら隙無く巡っているだろう視線も。
ただアナタだけが、私が知っている姿が、その背ばかりではないという事を、知らない。

 

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-Not yet-




基本的に外食ばかりの私が何故グロスリーストアにいるのか。
その問の答えはとても簡単だ。
(新しいブーツ、コート、スカート、新しいアイシャドー、フレグランス…)
秋のセールまでに軍資金を貯めるために他ならない。
女子の秋は出費がかさむのだ。光のように過ぎ去る秋は、まるで何かを申し合わせたかのように素敵な新作が出る。
自分の家の、貧相なキッチンで作るよりは外食の方がずっと美味しいものにありつけるし、片付ける必要も無くて楽だ。
途端に怠惰な欲求が沸き起こるのを、今のうちに目を付けておいているショーウインドウの新しいバッグを思い浮かべて沈静化を図る。
モスグリーンの革で出来ていて、錠がついているバッグはファッション雑誌を立ち読みした時からずっと目を付けていたもので。
あのシックなカワイコちゃんは是非手に入れたい。がまんがまん。
「そうそう我慢我慢」
「何を我慢するんだ?」
「何をって外ご飯に決まってるじゃな、」
知らず口から洩れた独り言に返事が返ってきたことに全く気付かないまままくし立てるように説明して、唐突に止まった。
真横で同じように買物かごを腕から下げた男が、何か可哀相なものを見るような目で見てきている。
「バージル」
「奇遇だな」
キャベツの重さを比べながら淡々と告げられた短い挨拶。
青い目立つコートではなく、濃紺のシャツにグレーのジーンズというバージルは私に目もくれずに再び口を開いた。
「独り言が多い奴はボケるのが早いそうだ」
「そ、そぅお」
見上げているのが唐突に馬鹿馬鹿しくなって視線を真っ直ぐに戻す。
聞かれた!
それだけが、恥ずかしくて腹立たしくて苛立つ。
当のバージルは『こっちが重いか?』などと主婦じみた独り言(自分だって!)
を漏らして、右手に持っていたほうをかごに入れた。
「ところで、」
何処までもマイペースな彼。
そして無駄に記憶力のいい彼。
「何を我慢するんだ?」
ほら来た。
私はむすっとしたまま、キャベツの横にあったオニオンを無造作にかごに入れる。
「…あ、あきのしんさくばっぐ…」
なんだ下らないという顔をするな。
「か、勝手でしょ!」
「女というのはいくつ入れ物を買えば気が済むんだ」
トリッシュなんか、一年に6つも7つも買うんだ。意味分からん。
そう愚痴るバージルを他所に、私はちょっとトリッシュが羨ましくなる。
「私は!」
すたすたと進んでいくバージルの背中を小走りで追いかけながら反論の言葉。
「私はバッグなんてそんなに買えないもの!…ど、どこかの誰かさんの弟が貸したお金を返してくれないからね」
うそつき。本当は服とか新しい得物とか、細かい出費が多いだけ。
でも本当の事を言うのは何だか癪だから、そういうことにしておく。
バージルはいつものように無関心と言うか、無感動に私の反論を流すと思っていた。
わかったわかった とか。
知るかそんなこと とか。
しかし私の予想は大きく外れ、彼は歩みを止めて振り返り、私を見る。
一瞬嘘がばれたのだと思って面食らった私は慌てて『ざまあみろ』みたいな顔を作る。
「何よ。お兄さんが代わりに払ってくれてもいいのよぉ?」
ああもう。口からポンポン出る嘘を誰か喉の奥に戻して欲しい。
でもその予想も、外れた。
どんどんドツボにはまっていく私を平淡な視線で見下ろし…否、見下しているバージルの手が伸びてくる。
「あ、ちょっと」
想像していたよりも強い力で、買い物かごの取っ手を奪うバージル。
そして私の非難をまるきり無視して私のかごからたまねぎやらニンジンやらを取り出しては自分のかごに入れてゆく。しかも、くるりと私に背を向けて今まで以上の早足で歩きながら、だ。
「…って、ちょっとお!」
待ちなさいよ、と言い終わるころには、彼の背はあっという間にレジの列の中へ消えていった。





程なくして清算を終えた彼がレジ袋を二つ提げてやってきた。
そして徐に左手に持っていたほうを差し出してくる。中身を見たら、私のかごに入ってたものばっかりだった。
「…別にそういうつもりじゃ」
無かったのに。後半は口の中で噛み潰した。
生真面目なバージルには私の嘘はおろか、それを隠すための冗談も通じなかったと見える。
大体、こんな食材ごときで消えるような借金なんかじゃない。
それを口に出すほど野暮ではないけれど。
私はため息一つ。大人になって覚えたこと。我慢すること。許すこと。…お金と仕事以外は、だけど。
「もう、私が我侭で頭が悪いみたいじゃない。悪かったわよ」
何か言いなさいよ。気まずいじゃない。
私は胸ポケットに引っ掛けていたサングラスを取る。これ以上傷を広げないためにさっさと退散する方が吉だと思ったからだ。
誰の傷かって?勿論、アタシの。
「ま、ありがとね。お兄さんに貸しがあるわけじゃないから、そのうち何かお返しするわ」
じゃあね、と背を向けようと踵を返しかけたところで腕を掴まれた。
バージルはどこかを見ている。いつもぴんと伸びている背が一層伸びている。何処か、何かを探すように視線をめぐらせている。
そして言った。

「欲しいのはバッグ、と言ったな」






*






「…別に、そういうつもりじゃ」
本日二度目の台詞。
一度目に比べて、蚊の鳴くような声だけれど。
彼の肩から下がっている可愛い紙袋には大きなロゴが入っている。
紙袋の中に、布製の袋、そしてさらに薄紙に包まれて過剰包装とも言えるくらい大事にしまわれているのは、私が欲しくて欲しくていた、バッグ。
日没間際の夕焼けの中、こちらなどお構い無しに足早に歩く背中を申し訳なさ半分、恨めしさ半分で見上げる。
「……」
「……」
まるでその沈黙は周囲にも強要しているかのようで息が詰まる。
話しかけるな、とか。
黙れないのか、とか。
口を開けている限りいつか言われるような気がして、今度こそ口を閉じた。
結局何だか分からない。なんの説明も無く半ば叱られるように(感じただけで彼としてはそんなつもりはなかったのだろうけれども)
店の名前を問われ、渋々答えればあそこか、と言って歩き出した。
店に着くや否や、怯える店員を一人捕まえて彼は、あろうことか、全く尊大な態度で『ショーウインドウにあるアレをくれ』。こう言い放ったのだ。
そしてはたと気がついたのか私の方へ向き直り『あれだな?』と短く問うたのだ。
感情の薄い彼が何を思ったのか全く分からない。が、気迫に押された私は何度かこくこくと頷き、満足したのかそうじゃなかったのか、兎に角彼はもう一度状況が飲み込めていない女性店員に向かって『あれを』と命じた。
『あれ』は、モスグリーンの革で出来ていて、錠がついていて、私がファッション雑誌を立ち読みした時からずっと目を付けていたバッグだった。
「……」
「……」
正直喜べない。全然嬉しくない。そこまで厚かましい人間ではないのだ。どうしろというのだ。
しかしその背は全ての問いかけを拒否しているように立ちはだかる。
急にどうしたの。なんで買ってくれたの。お金あるの。
怒っているの。
それとも呆れているの。
分からない。黙っていたら、何も分からないじゃない。伝えられないじゃない。
自然と歩みが遅くなる。明らかにペースの違いが出てきてどんどん遅れていく。このまま踵を返して私が何処かへ行ったとしてもバージルは気がつかないような気がする。そうしてしまおうか。そうした方が、楽かもしれない。
「どうした」
唐突に頭上から振ってきた言葉に驚いて顔を上げれば、遠くに感じていた顔がすぐ近くにあって私は小さく息を呑んだ。
様子を伺うように見下ろしているのだか覗いているのだか、他人には興味が無さそうなくせにそんな顔も出来るのか。
「疲れたのか」
思案するように顎に手を当てる。休憩場所を探しているようだ。
機械のように回る思考回路。その何処で、何を考えているのか私には分からない。
「どうしたの」
急にどうしたの。なんで買ってくれたの。お金あるの。
怒っているの。
それとも呆れているの。
分からない。黙っていたら、何も分からないじゃない。伝えられないじゃない。
「どう、とは?」
困った。余計なことばかりは意思に反してぽんぽん出てくるのに、肝心なことが喉につっかえたまま何一つ出てこない。
「だから、」
「ああ」
何か合点が行ったらしい。
これだから頭がいい人間は困る。察しなくていいのよ、ここは。言わせなさいよ。会話するところでしょ。アンタの弟もそういうとこあるわよね。最低よ。
「何笑ってんのよ、もう」
「いや、別に」
「だって珍しいじゃないの」
「そうだろうか」
「え?」
そうは思わないがな。
バージルは意味深な事をぼやく。
でもその続きは、きっと、決して出てくることは無いのだ。
なんとなくそう思った。ひょっとしたら彼自身にもその続きは分からないのかもしれない。
ただ今は、それ以上は知らなくていい。…今は、まだ。
「大体だな、貴様、折角買ってやったのにちっとも喜ばん」
「お金をちゃんと払ったこと以外は強盗みたいだったのよ!もうやめてよね。店員さんが怯えてたじゃないの。可哀相に」
「金は払ったのだから強盗じゃない。釣りも受け取らなかったのだからいいじゃないか」
「何処がだ!」
ぼか、と彼の背中を叩いた。
いつの間にかいつもの調子に戻っていたことに気付く。無言の混線も誤解も、何の言葉を交わさずに解けていった。ああ、大きな借りを作ってしまった。
方にもかかわらず車の通りが少なくなった。T字路に差し掛かる。
私が住むストリートは右、便利屋Devil May Cryは左。
分岐点で、どちらともなく歩みが止まった。
「折角買ってもらったんだから、精々大事にするわ」
紙袋を受け取る。中を一度確認して、苦笑のような諧謔気味のある笑顔で言ってやった。減らず口、売り言葉に買い言葉、結局私はそんな言葉しか出ないのだ。だが、素直にありがとうとは絶対に言わないわよ。
答える代わりに彼はぽんぽんと私の頭を叩いた。
「…買物もいいが、あまり無理はするな」
お兄さん然とした世話焼き発言。
それだけ言い放ってサヨナラもまた今度も無く、背を向けて歩き出すバージル。
「荒んだ生活してるとシワが取れなくなるぞ」
思い出したように付け加える厭味も忘れない。
このやろう。

追いかけてって蹴りを見舞った。


「……」
黙々と歩く背中を眺める。
着痩せする背中は実は大きいことを私は知っている。
ちょっと大きめの歩幅も、ぴんと張った背骨も、日常においてすら隙無く巡っているだろう視線も。
ただアナタだけが、私が知っている姿が、その背ばかりではないという事を、知らない。
知らなくていい。

…今は、まだ。

 

 

 

***

 

公然で共通で内緒の秘密。