夜が明ける瞬間というものを知っているだろうか。
夜と朝の区切りというものを知っているだろうか。
東から射す日の出の光はいきなり空を明るくしたりするほど乱暴ではない。
ただ、昇ってしまえば後は早いのだ。ぐんぐん辺りが明るくなり、空は夕焼けにも似た茜色に染まる。
木々が起きて鳥が起きて、そして人が漸く目を覚ます。
辺りから朝餉の支度をする物音と匂い。霧は晴れて、今日が始まる。




あるはれたひに




「眠れなかったの」
私はぽつりと言った。
看護婦は一瞬だけ私に視線を寄越した。そして、すぐに逸らすと点滴の点検に取り掛かった。
黄色い液体が入ったパックは一晩掛けてじっくり私の体の中へ侵入する。そして朝、青い液体の入ったパックが空になったそれと取り替えられる。
針がちゃんと刺さっているか看護婦は無造作に私の腕を持ち上げて調べる。私は一晩中窓の外を見ていたから針は刺したところから全く動いていない。最も、医療用テープと包帯でぐるぐる巻きにされ固定されているのだから多少動いたところで大丈夫ではある。
「ご飯は食べたくないの」
看護婦は無愛想にワゴンの上に乗せられていた食事、ご飯と味噌汁とほうれん草の胡麻和えと林檎とヨーグルトが鉄の盆に載せられている朝食をベッド脇の机に置いた。
彼女は私とコミュニケーションをとるつもりはないらしい。どちらかというと避けているようだ。
無表情の顔は明るくも暗くもなかったが、私には嫌な顔をしないようにつとめて表情を押し殺しているように見えた。

私は看護婦と会話することを諦めて窓の外を見る。少し目を放した隙に朝の日差しは夏の日差しに変わっていた。そこはもう朝ではなかった。ため息一つ。足早に看護婦は退出した。私は点滴のされていない左手(私は右利きなのだか、不幸なことに点滴も右腕にされているのだ)を使ってなんとかスプーンを握る。
食欲がないからか、湯気の立ち上る白米は美味しそうに見えない。お腹が減ってないのだから仕方がない。
私はスプーンを下ろした。ヨーグルトだけでも食べようか。いや、やめておこう。
実を言うと、私はかれこれもう一週間ろくに食事を取っていない。勿論それは食べるものが無いと言う根本的な問題ではなく、毎日三食運ばれてくる食事は恐らくとても美味とは言えないが、それでも不味くはないはずではある。それでも食欲がない。点滴によって栄養は取り入れているからかもしれない。
加えて私は睡眠も殆どとらない。毎日十時になると無遠慮に自動消灯するこの部屋で、それでも毎日寝付けずに外をずっと眺めているのだ。窓がなかったらとうの昔に退屈死していたと思う。
私は無意味に味噌汁をかき回す。沈殿していた豆腐が広がる味噌と共にくるくると踊った。
食事も睡眠もしない私は人間として破綻していると思う。
仕方がないと言えばそれまでのはなしではあるが。もとより一日中この決して広くはない部屋の中、ビニールのチューブに縛られてただ寝ている私はエネルギーを外部から取り入れなければならないほど消費しているわけでもなく、それゆえに休息をも必要としなくなってしまったのだと思う。
その生活自体が既に生命の尊厳を大きく傷付けているが、私は自分から望んでこの生活をしているわけではないのでそこを糾弾されてもただ閉口するしかない。
私は味噌汁をかき混ぜるのをやめ、動かない右手で傷だらけのプラスチックの茶碗を持った。正しくは膝の上に置いて、右手の僅かに動く指先で支えた。空いた左手を伸ばして窓を開ける。
窓はベッドからおおよそ50センチ高いところにある。気休め程度の出窓には何も置いていない。見舞いなど来ないのだから生ける花もない。
鍵を外して窓を開け、暫く待つとのそりと一匹の猫が入ってきた。
グレーの毛並みと緑のガラス玉のような瞳。隙のない、それでいて優雅な動きで尾を振る。ごきげんよう、とでも言っているようだ。
私はご飯の入った茶碗に少し味噌汁を掛けて、出窓に置いた。
「食欲がないの。あなた、良かったら食べてくださる?」
そう聞けば、猫はニャアと一言。
彼女は、彼かもしれないが、とにかく猫はあくまでも優雅さを失わない動きで味噌汁ご飯を食べる。
この病院に来てから、この子が私の唯一の友達で話し相手であった。ひょっとしたら猫のほうはご飯を目当てに来ているのかもしれないが。
毎日三回、ご飯が配膳されてしばらくすると現れて、飯を食し、一時間ほど膝の上で昼寝をしてまたいなくなってしまう。
首輪はしていないから野良猫であるはずなのに毛並みはその辺の家猫よりよほどきれいだった。
「ありがとう。今日も全部食べてくれたのね」
私がしなくなった食事と睡眠をこの猫が代行しているのではないだろうか。
私はこの猫が食事をし、睡眠を取る様を見て自分がそれらをした気になっている節がある。
食事が終わった猫はすとんと私の膝の上へ。前足を使って毛布を慣らして寝床をつくるとそこに落ち着いた。
猫の頭を撫でながら私はまた外を見る。
私が何の病で、どうして入院していて、これまではどういう暮らしをしていて、友達は何人いたのか。
もはやそれは思い出そうとしても記憶は呼び起こされることはなかった。それほど長い時間を私はここですごしているのだ。
ともすれば言葉も忘れてしまう。だから努めて話しかけてみるが、それもこの部屋に来る看護婦と、時折検診に来る医者くらいなもので、彼らは大概私の言葉を黙殺して自分の仕事をこなし、去っていく。
もっともこの暮らしで会話をする必要もないのは分かりきっているが。それは生きているのと死んでいるのと、どちらなのだろうか。
そう思ったとき、私は睡眠よくも食欲も完全に失ってしまったのだ。
今の私は死人となんら変わらない。それでもこの子に温かい食事と暖かい寝床を提供できるだけ、マシではあるけれど。

日差しは強まるばかり。雲は上へ上へと伸び上がる。これは、そう、夏。
窓から熱い風が入る。空調の温度センサが反応して不健康な冷気を吐き出す。私は窓を閉めた。
途端に鳥の声も風の音も遮断され、残ったのは空調のモータの音だけ。
四角く切り取られ、更に木々で遮られた小さな空を見上げる。私の足はまだ私の体重を支えることが出来るだろうか。私の足はまたあの空の、雲の、太陽の下を歩くことが出来るのだろうか。
人はそれを希望と呼ぶのかもしれない。けれど、すぐには『希望』という単語が出てこなかった。使わない脳は確実に、着実に、その任を投げ出し始めている。
考えることも必要無い。この生活。
一本の線で生と死が分かれているとしたら私はちょうどその線の上に立って途方にくれているのだろう。生者は私を拒絶している。しかし、死者の仲間に入るには私はまだここで生きている。
狂っていると思った。私も、世界も。
うつらうつら舟を漕いでいた猫は完全に夢の中へ行ってしまったようだ。
猫の温かい体温を膝に感じた。酷く熱いのは、私が酷く冷たいからかもしれない。血管の浮き出るほどに痩せ細った手首。いつの間にか私はこんなに小さく細くなってしまっている。
日差しにあたり真っ黒になることなどもはや永遠無いだろう。
「でも生きてるんだよ」
無理やり言葉にしてみる。
「それでも生きているんだよ」
空を見たり
星を数えたり
泣いてみたり
怒ってみたり
笑ってみたり
友達と遊んでみたり
本を読んでみたり


「上手には出来ないのかもしれないけれどね」


枕に頭を預けた。
布団から滑り落ちた猫が不思議そうな、迷惑そうな顔をしている。

私は目を瞑った。

 

 

End