「―――ああ、分かった。じゃあまた電話する。お休み」
受話器を置いて顔を上げる。いつも依頼内容を書き留めるメモ帳は意味を成さない落書きだらけだった。
それを破り取って丸めて横のゴミ箱へ捨てる。ふう、とため息を吐き、これから仕事に行く気などさらさら無い俺は黒革の椅子から腰を上げた。
引き出しにメモ帳をしまい、無意味に並べた銃弾を適当に入れた。
「随分と長電話だったな」
いつの間にか奥へと通じるドアを背にバージルが立っている。
呆れているのか、その視線は鋭い。
「そうか?」
「二時間と三十二分四十七秒」
「時々お前は機械じみてるな。何が言いたい?」
その目が更に鋭くなって、俺はなんとなく拙いと思ったのだ。
「俺が疎ましいのなら出て行くが」
ホラ来た。
「なんだそれ。意味が分からな」
「女と住みたいんじゃないのか」
鋭い視線を寄越すくせに声はいやに平淡だった。
「…それは」
「確かに、同棲するのに兄がいたのではな」
怒っているわけではないようで、寧ろ同情や肯定、理解すら含まれていた。
外された視線は何処と無く流れて窓の外に落ち着いた。今俺が目を逸らしたら、きっと全てがコイツの思ったとおりになってしまう。
「バージル、聞いてくれ」
「どの道出て行くつもりだった」
「!」
一番聞きたくなかった一言だって奥歯をかみ締めるだけで踏ん張る。本当は激高しそうなのだが。
「意外だったか?俺もお前の負担になるのは嫌だ」
戻された目。何も映っていない様な色をしている。あれが本当の、今の兄の色だということを俺は知っている。
「もう店も閉めるんだろう?俺はちょっと出かけるぞ」
「バージル!」
「なんだ」
目の前を通り過ぎようとしたバージルの肩を強く掴んだ。振り向かせようとしたが、それ以上の力で振りほどかれた。振り向きもしない。俺はだんだん腹が立ってきた。
「…ちょっと来い」
「出かけると言っている」
「来いっつってんだよ」
コートを掴んで殆ど力任せに引きずる。奥へ通じる扉を蹴破りダイニングを抜け、階段を上る。バージルが使い出した一番奥の部屋のドアをまた蹴破って、バージルを乱暴に投げ入れた。
今度こそ怒ったような顔をするバージルを一瞥すると俺は机の上に置いてあった地球儀を手に取った。
手でくるくると回して、しばらくその様子を見る。そして指でぴたりと止めた。そこは言わずもがな、
「俺たちが今いるのは此処だ」
そう。俺たちが住んでいる街。
「だからなんだ」
「それで彼女が住んでいるのが、」
俺は四半回転させて別の位置を指差す。
「此処だ」
その間にあるのは広く大きい海。俺と彼女を隔てるクソ忌々しい距離。
「俺は便利屋でデビルハンターで、裏社会で生きてる日陰者だ」
「だからなんだ。今更気にすることでもあるまい」
「気にする。大いに気にする」
それは俺が本気だからだ。本気で大切だから、手元に置かない。何よりも大切だと思うから一緒に泥まみれになれなんて言えない。薄汚れて明日死ぬような事をさせたくない。しかし自分はそれしか生きる術がない。
そうと言って正式な手続きで会いにも行けない。
八方塞だってのは知ってるさ。だからいつまでも待たせている。
「お前なら分かるだろう?」
俺は項垂れる。お前が出て行ったところで何がどうなる訳ではないんだ。申し訳ないが。
静かに地球儀を元の場所に置いた。小さな振動に地球儀がゆっくりと、その距離を見せ付けるように回る。
「会いに行きたいさ。一緒になりたいさ。俺は本気だ。愛しているんだ」
「…ダンテ、」
「だけど今の俺には何も出来ないんだよ、バージル。今以上にこの血を呪ったことなんてないんだ」
年甲斐も無くって思うか?俺は大人気ないんだ。
髪を掻き毟る。今の自分でなければ彼女と出会うことも無かったが、今の自分だからこそ普通のようには行かない。
「…どうして、俺たちは普通の事をするのにこんなにつらい思いをしなきゃならないんだろうな」
バージルは何も言わない。先ほどまでの怒りも何処かに失せたような表情をしている。しかし時々見せる穴が開いたような虚ろな顔をしているわけでもない。
そこには同情や肯定、理解すら含まれていた。
ああそうか、お前も。
「悪い。お前に当たるつもりじゃなかったんだ」
「本当だな。お前が悪い」
「は?」
変なところで肯定されて俺は一瞬鼻白む。
まあ、お前の口から「いいや、そんなことはない」なんて出てくるとは思わなかったけど。
「お前が悪魔狩人なのも便利屋なのも金も甲斐性も器用さも欠落しているのは、全てお前の責任だ。そうやってあーだこーだ悩むお前など気持ちが悪くて吐き気がするわ」
「…言うね」
「当然だ馬鹿者め。俺がいない時間にどれだけ成長したかと思えば、まったく進歩が見られないのだからな。呆れる以外に一体何をしろと言うんだ!」
「…」
「お前は最後の決断になって怖くて逃げ出したがっているだけだ。一番重要な局面で惨めったらしく怖気づきおって。そんなこと知るか!お前の人生なんだからお前が決めろ馬鹿者!いつまでも甘ったれるんじゃない!」
そういうとバージルは傷心の俺を蹴飛ばして部屋から追い出すと乱暴に扉を閉めて鍵まで掛けてしまった。外出はいいのだろうか、しかし本人はそれきり全く気配を押し殺してしまってうんともすんとも言わない。
「…はは。好き勝手言いやがって。本当に追い出されたいのかテメー」
思わず苦笑が漏れる。

 

言われたくないことを全部言われたのに、全く腹立たしくなかった。

 

 

***

 

 

遠恋と歳の差と種族の違いを飛び越える勇気はまだ無い。