覚醒する直前の薄膜の中で思う。
ゆらゆらと揺れる現実と夢の狭間で、見る夢は鮮明でいて、儚い。
なんども伸ばしては引っ込める手。
空を切るそれを情けないと握り締める。
後頭部からうなじ、背骨を伝って足の先まで見慣れた姿。
何度も見ているから、多分、正面からよりも、ずっと多いはずだ。
夢なのに。
夢ですら。


どちらにしても変わらないのは、確かだと、もう一度深い場所へ沈むことに決めた。


茶色のやや草臥れた感のあるドアをドンドンと叩いて応答を待つこと一分。
ダンテは同じく古めかしいドアノブに掛けて物は試しと捻った。
ガツ、といくらも回転しないノブ。鍵がかかっている。
陽はとうに天頂を過ぎた。規則正しく生活することを放棄したダンテは、ここ数日仕事をしていない。どうせいつもしないのだが。
適当に起きて食べ物を食べ、音楽を聴いたり雑誌を捲ったり飲みに行ったりしている間に生活リズムはぐるりと一周して、最近は朝に目が覚めるようになった。
年のせいではない。そう思いたい。
毎日つき合わせるもう一つの顔は昔のまま代わることが無く、それは明確な比較対象として自分の前に突き付けられる。
人として歳を取るのは歓迎すべきことではあるのだ。それは彼の一貫した信条である『人間として生きる』に即しているから。
でも『人間として』老いることは、まあ…色々切ないわけで。
(勿論、抗うつもりはないが、流されるつもりも毛頭無い)
彼は時々そう決意を新たにする。
無精ひげを撫でながら、全く老いを見せない双子の兄の部屋の前で立ち尽くしている。
うんともすんとも言わないドアの向こうがちょっとばかり気になったのだ。これが逆の立場なら、兄は…バージルは気にも留めないだろう。自分の生活が破綻している事は十分すぎるほど分かっているはず。仕事柄、夜中にしか活動しない自分が昼過ぎまで寝ていようが夕方にブランチを食べようがたいした問題じゃない。それが苦痛だったことも無い。
対してバージルはその身体にまるで刷り込まれたかのように模範的生活を送っている。
機械のように『人間らしく』。
朝、日が昇ると目覚め、朝食を食べ、家の中の細々とした世話を焼きつつ読書に耽り、夜は日付が変わることにベッドに入る。
その彼が12時を過ぎても起きてこないとは。
まさか、死んではいないと思うが。もぬけのから、ということはあり得るのだ。
(そう、それが一番厄介だ
)
テメンニグルの一件は確実に兄弟の間に確執を齎している。薄れることがあっても、恐らく消えてなくなることはない。
留め置く権利も、義務も無い。
しかし何度繰り返そうと、自分はそれを阻止しようとするだろう。何十回でも、何千回でも。
ただし、それはダンテの勝手な推測でしかなかったが。
バージルが果たして、今も尚魔界へ渡るつもりでいるのかなどということは。
ダンテは先ほどより少しだけ力を込めて、扉を叩き始めた。
奥歯を噛み締める力は、それよりも遥かに強かった。




夢の中では印象的な物だけが精彩を放つ。
それは何処かの街の石畳の歩道。立ち並ぶショーウインドウに並べられているものは、どんなに集中してもぼんやりと輪郭がふやけて捉えることができない。
あまり重要ではないのだ、それは。
それも勝手に自分がそう解釈しているだけで実は視覚的に捉えることは出来ないのだ。
街灯がテラテラと輝いているのに、昼間のように明るく、それでいて空は漆黒で星が瞬いている。
何故だか分からないが、そういう状況なのだ。それが彼の見る夢の約束事であった。
そして耳が痛くなるような木枯らし(これも特に感じているわけではないがそういう『設定』がお決まりになっている)を切って歩いている。
人通りは皆無。まるで一夜にして住人が消えうせたかのような不気味さすら漂う街の中、バージルは只管に街中を歩いていた。
十字路に差し掛かる。
信号機も電線も車も見当たらない。整然としていながら、殺伐とした広場といったところだ。
立ち止まってその中央に立つ人を見つめた。
彼女はこちらを見ていない。自分に背を向けて、マネキンのように立ち尽くしている。
それは良く知った人間だった。
風が吹き抜けてブラウスが寒そうにはためく。七分丈の袖から覗く白い腕には歴戦の傷跡。
何度も同じ夢を見ている。決して振り向くことの無い彼女の背中をただ見つめるだけで終わる、この夢を。
彼女はいつも十字路の広場の真ん中に立ち、自分はそれを歩道の上から、見る。
話しかけることも近づくことも許されなかった。誰に、許されていないのかは分からない。もしかしたら、自分自身が許していないのかもしれない。
手を伸ばしても届くはずの無い位置から、飽きる事無く彼女の背中を見る、ただそれだけの夢。


触れることは許さない。
近づくことは許さない。
誰が。

…自分が。

そして、いつもその結論に至った後、バージルの意識は覚醒する。
それに備えて瞼を下ろす。すると現実の自分の瞼が開く。

 

 

はずだったのだが。

 

   

違和感を覚えて再び瞼を開いた。
人気の無い街、中身の見えないショーウインドウ。それらは依然としてそこに存在した。
しかしあの切り裂くような木枯らしが止み、代わりに凪のように空気が固まっていた。
遠くで鐘が引っ切り無しに鳴っている。ザワザワと聞き取れない囁きが耳につく。
ザリ、と背後で砂利のこすれる音がして反射的に振り向いた。
誰もいなかった。
じわじわと動揺が身体を支配していく。警戒して神経を研ぎ澄ませば澄ますほどに違和感が募っていく。ここは、違う。…自分の夢の中じゃない!
パニックに陥りかけている。冷静になれない。誰かが自分を操作しているような気分になってくる。
「…!」
前方に視線を戻そうと再び振り返ると、十字路の中央にいた彼女がいつの間にか自分の目の前にいて、息を呑んだ。
決して動かなかった彼女は一瞬の間にバージルの目の前まで移動して、見上げている。
大きな左右非対称の色が真っ直ぐ射抜いてくる。その瞳は微動だにしない。死者のような虚ろな、ビー玉のような目玉とかち合った瞬間逸らすことが出来なくなった。迂闊だったと思う。
その目は現実の彼女よりも大きく、幼く見えて不気味だった。
鼻の頭を横一文字に傷が走っている。そばかすの後が残っている。大きな唇は縫い付けられたかのように真一文字に結ばれて動く気配は無い。長い睫も、瞬きをしないためゆれることが無い。
後ずさりたかったが、出来そうになかった。
何故触れてしまわないのだろうと今まで疑問だった。
これは自分の夢なのに。触れてしまいたいのに。
目覚めた後、幾度となく後悔に苛まれていたというのに。


触れてしまえば、


自分の手が伸びる。自分の体が自分の意思に反しての行動だった。
感覚を奪われた離人症状の中、緩慢に伸びていく手を人事のように見ていた。見ることしか許されなかった。
右手は頬に触れるまであと数センチ、と言うところで止まる。心なしか指先が震えている。
どんなに傷つこうとたちどころに回復してしまうまっさらな手が、いくつもの命を奪い、闇を屠ってきたその手が、どんなに幼かったか思い知った。
指先は暫く迷うように伸ばしては竦む。そして一度強く握られて、力なく空を切って落ちていった。
全ての感覚が戻ってきた時には、彼女はまたいつもの位置に佇むばかりだった。
もうこちらを見てはいない。いつもどおりに、背を向けて遠くを見つめている。
その背は少しだけ垂れ下がっていて、いつもよりも小さく見えた。
彼女の視線から解放され、離人からも回復した。ザワザワと囁いていた何かにはなにかしらの否定が含まれているようで、陰口を言われているようなどことなく惨めな気分になってくる。そしてそれが以前よりも羽虫の立てる音のようにむず痒く耳について離れなかった。
額を押さえ、どうすれば目が覚めるのか考える。覚醒するには何かが足りないのだ。この停滞した世界から抜け出すには、何かなさなければならないような気がした。
…でも、何を?
ふと、彼女の視線を辿る。あの大きな双眸は真っ直ぐ何かを捕らえて離さない。自らそう願い、固定したような、貫くような瞳は今何を見ているのだろう?
彼女が向く方向はまるでループしているかのような街並みが続いている。いつもなら意識することすら出来ず、薄っすらと霧がかった様なその先には、十字路がある。どうやら碁盤のような空間らしい。
並行する縦と横の道。
交錯する十字路。
その中央に立つ人影。
そしてそれを見つめる……自分?
全身が総毛立った。背後で視線が質量を増していくような間隔がする。反射的に振り向く。
自分の背後には彼女が―――。
真っ直ぐな瞳とかち合う。驚いたように見開かれた、左右非対称の色たちと。  

そして自分が、漸く彼女と向き合ったことを、知った。

 

 

 

 

彼女はいつも十字路の広場の真ん中に立ち、自分はそれを歩道の上から、見る。
話しかけることも近づくことも許されなかった。誰に、許されていないのかは分からない。もしかしたら、自分自身が許していないのかもしれない。
手を伸ばしても届くはずの無い位置から、飽きる事無く彼女の背中を見る、ただそれだけの夢。  

触れることは許さない。
近づくことは許さない。
誰が。


…自分が。


そして、いつもその結論に至った後、バージルの意識は覚醒する。
それに備えて瞼を下ろす。すると現実の自分の瞼が開く。
そうだ。いつも自分は彼女に背を向けていた。触れるな、近づくなと自分に言い聞かせて、それを彼女に背中で伝えていた。
そしてそれに飽きて、或いは振り変える事の無い彼女に絶望して現実に帰っていく。
ずっと、見ていたのに。
彼女は初めからずっと、

ずっと、自分を見ていたのだ。  

縫い付けられたかのように動かない足に力を込める。踏み出すための右足が石畳から離れる。身体よりも先に気持ちが動いて、自然と手が伸びた。
今目を閉じてしまったら覚醒する。現実に引き戻される。閉じてはいけない。目を離してはいけない。
踏み出したはずの右足は再び石畳に着地することなく闇を踏んだ。
大きな穴を中心に碁盤状の世界が崩壊していく。
鐘の音が大きく鳴り響き、ざわめきは呪詛のようにまとわりついた。
一歩も踏み出せないまま落下する感覚が全身を駆け巡り、落ちることよりも届かないことに、気付くのが遅すぎたことに恐怖した。
名前を叫ぼうとするが喉は潰れていて上手く音にならない。息だけが呻きのような音を立てて出て行くのみで終わる。
目を見開いた。伸ばした右手が空しく弧を描く。
だめだ。落ちる。
そう思った瞬間、右手が何かに触れた。いつの間にか目の前に彼女の姿がある。自分が落ちかけているその洞の上に立った彼女は自分の手を包み込むように握っていた。暖かくも冷たくも無い無機質な触感だと他人事のように思った。  


「 。」  


一瞬、時間が止まったような気がした。
時間だけではない、音も景色も自分自身の鼓動も何もかもが止まった。ただ大きな風が吹いて、彼女の言葉を塗りつぶした。
何を言った?
そう問う間もなく時間は再び動き出し、バージルは今度こそ闇の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

どん、と鈍い音が天井でして、ダンテは徐に上を見た。
ぱらぱらと埃が落ちてくる。嫌な顔をして目の前のリゾットに埃が入らなかったか確認した。
結局うんともすんとも言わないバージルは放置して自分の空腹を満たすためキッチンに降りてきたのだ。腹でも減れば自然と降りてくるだろう。限界まで感覚を研ぎ澄ませて存在だけは確認したから、部屋の中にいることは間違いないのだ。いるならいい。結論は至ってシンプルでこの男らしい。
材料を入れて混ぜるだけの即席リゾットは、栄養はともかく大人の男一人のエネルギーは賄えるだけの量とボリュームがあった。
ただちょっと味が飽きてくるくらいだ。マトモなものを食べるためには、仕事をしなければならない。ダンテは休業の看板を心の中でこっそり下げた。
それにしても、さっきのは一体。
冷めつつあるリゾットを口に運びつつダンテはもう一度天井を見上げる。
真上は確かに兄の部屋がある。

まさか、ベッドから落ちたなどということは無いと思うが。






「―――っ!」
二階では冷たい床に後頭部をぶつけて悶絶するバージルの姿があった。
ものの見事にベッドから転げ落ちた彼は寝ぼける間もなく頭を強かに打って声も出せない。
毛布が身体を引っ掛けて、運悪く頭部からの落下。鈍い音がして視界がぶれて、頭が一気にクリアになる。
しばらく痛みをやり過ごし、改めて起き上がる。
鮮明すぎるほど鮮明に覚えている。全てのことを。
まるで現実のように彼女の存在を感じた。本気で頭がおかしくなったのかと後頭部をさする。…コブが出来たようだ。
さすっていた右手を目の前にかざして今しがた見ていた夢を思い出す。
握っては開きながら、考える。

彼女は最後、なんと言ったのだろう。






ベッドの中で瞼を半分だけ持ち上げた。
 (冷たい手だった)
ベッドからはみ出ていたせいか冷たくも暖かくも無い自分の両手を握り締めながら、今度は温めてやれたらいい、などと考える。
むこうではなく、こっちで。
まあ、彼がそれを甘んじて受けるようなタイプの男じゃないけど。
それにしても。
「……遅すぎんのよ、馬鹿」

呆れたようにそれだけ呟いてから、レディは毛布を被りなおした。

 

 

 

 

***

 

気持ちだけは通じている。