今日も僕はこの坂道を下って家に帰る。
鞄が肩に食い込んで、僕まで地面に食い込みそうになりながら。




We don’t believe grown.




空は酷く青くて、高かった。
八月。
何が悲しくて夏期講習。受験生でもないのに。
二期制になったのはゆとりと言う名の職務怠慢だと何処かの誰かが言っていた。

―――だって学校が楽になったら親は子どもを塾に入れるだろ?

仰有る通りです。
見事にぶち込まれた進学塾は、まるで子どもたちを洗脳するように大学、大学と言う。
待て、と思った。
高校だって受かってないんですが。と言うか、中学もあと一年半くらい残ってるような。
塾も親も大学に入って好きなことを仕事にできるように、なんて言うけれど、考えてみたら僕のやりたいことって何だっけ?といった具合いに双方の温度差は馬鹿馬鹿しいくらいに開いている。

僕(に対する人)の夢。
良い高校に入って良い大学に行って。
それで?
僕は何になるのだろう。
それなりのサラリーマン、安全な公務員、ばりばり働く外資系。
違う違う。夢って、夢ってもっと明るい未来のはずなのに。
なんでこんな灰色に霞んでるんだろう。

「よー。じゅけんせー」

僕はノロノロと声の方向へ顔を向けた。
時代錯誤な駄菓子屋の店主代理。つまり、店主の孫娘。僕より一つ年上で、彼女こそ『じゅけんせー』なはずだけど。

「昨日も塾、今日も塾、明日も塾!えらいねー」

アイス食べてかね?暇なんだよー、となかば強制的に店内に引きずり込まれる。
さっき自分で今日も塾とか言ってたくせに。
この人は自分で言う事の八割は頭に浮かんだことを何の吟味もしないで口から出てきたもので、いちいち揚げ足をとっていたらきっと年末までかかるだろう。
そんなわけで僕は塾に行くことを諦めた。どうせ行きたくなかったし、2限目の模試には間に合うと思ったから。

「何言ってんですか。由紀先輩こそ受験大丈夫なんスか?」

手渡されたがりがり君(この人は妙なところでケチ臭いのだ)の封を切りながら問えば、

「んー…まーねー」

帰ってきたのは曖昧なうめき。由紀先輩はそれ以上何も言わずにパピコをくわえた。
そのままお互いに無言でアイスを攻略しはじめる。
ジャージャーとアブラゼミが煩く鳴いていて、しかし毎年のことなので気にもならなかった。
僕のガリガリ君がハズレだと解った頃、由紀先輩は食べきったパピコをくわえながら一度伸びをして、今度は膝を抱えた。

「受験しない」

「は?」

意味が分からない。

「受験さー。しないんだよねー」

パピコ(空)を呼吸に合わせて膨らませたり萎ませたりしながら、彼女は言った。

「あ、え?だって由紀先輩って「運動万能・頭脳明晰、おまけに可愛いって?照れるなー」

誰もそこまで言うつもりないんだけど。しかしあながち的外れなわけではなく、バスケ部のキャプテンで成績上位掲示者には必ずトップで記載されている。
……可愛い方かどうかはしらないけど。

「いやまーそりゃそうなんだけどさ」

認めちゃうのか。
パピコが膨らむ。

「なんつーの?学力とか偏差値とか内伸点ってなんか大人に踊らされてるような気がすんのねー」

パピコが萎む。
僕はガリガリ君を見つめている。

「アタシは駄菓子屋でいっかなー、なんてさー考えんのよ」

君からすりゃあヤな奴だわなぁ、と一人で笑う先輩はプール帰り小学生たちの相手をするために健康サンダルを履いて店先に出ていった。


おー真っ黒だなー
毎日プール飽きない?
飽きないの、へぇ
今日は何にすんの?
あい、モナカとスーパーカップね
金持ちだねえ
あっこのニイサンなんてガリガリ君食ってんぜ
やーいびんぼー!


などと言う自分がガリガリ君を寄越したクセに、小学生に混じってやーい、とか言いやがって。

「うっせガキィ、締めんぞコラ!」

キャー。


店先から小学生と由紀先輩が四散した。













「ただいまー」

「アンタ今日ちゃんと塾行った?電話かかってきて母さんびっくりしたんだからねー」

塾はちゃんと行ったよ模試も受けたから大丈夫。
おかえり、よりも小言が先行するのはいつものこと。そういうところが思春期のガラスの心にはきついのに。

「ああそう、駄菓子屋のお婆ちゃんね、倒れたらしいわよ」

「え、」

「もともと調子悪くて入退院を繰り返してたらしいけど、今度こそダメって噂よ」

あの子どうするのかしらねえ?受験生なのに、大丈夫かしら。
しかしその後の会話は僕の耳には届かなかった。

『受験さー。しないんだよねー』

何気なく放たれた言葉の意味を知った。














次の日の朝。
今日は日曜なので塾は無い。
けれど僕はいつもの坂道をいつもは使わない自転車に乗ってせっせと登っていた。
目的は駄菓子屋。
まだ朝と言っていい時間帯なのにもうセミが鳴いている。
汗を滴らせながら坂道を登っていたら、道端にある黒いものが目に入った。
アブラゼミだった。精根尽き果てたソイツは仰向けになって静かに呼吸をしていた。腹がゆっくりと動いている。
まるで引き際を弁えているような―――。

「チックショウ!」

なんとなくひねり出した叫びと共に重たいペダルを踏む。
ようやく駄菓子屋の前に到着した頃にはTシャツは絞れば汗が出そうなほど湿っていた。
アイスをまた驕ってくれないだろうか、などと考えながら顔を上げて、僕は凍りついた。

『一身上の都合により閉店することになりました。皆様には―――』

錆びたシャッターの真ん中にルーズリーフがセロハンテープ一枚で張り付いていた。
綺麗な、少しくせのある、由紀先輩の筆跡だった。

「あれーおにいちゃん?」

呆として立ち尽くす僕を覗き込んだのは昨日の小学生たちだった。
プールバッグを持っているのを見ると、今日も学校のプールに遊びに行くらしい。

「わたしね、昨日の夜遅くにお店の前に車が止まってるのを見たよ」

そんでね、お姉ちゃん泣いてた。

「馬っ鹿野郎!」

がしゃん!と僕は古びたシャッターを叩く。
小学生たちがびくりと身を引きつらせて一歩退いた。

「なんだよ、駄菓子屋がいいんじゃなかったのかよ。自分で選んだような口叩きやがって、ほんとは自分だってガッコ行きたかったんじゃねえかよ!」

がしゃん、がしゃがしゃ。

セキュリティに関して心もとなそうにシャッターが揺れる。
叩く力が弱くなっていき、僕はとうとうその場に座り込んだ。

「…結局先輩だって大人に踊らされてんじゃないかよ…」

消え入りそうな声で呟けば、周りから鼻を啜る音が聞こえた。
僕の行動にに驚いたか、只ならぬ雰囲気を感じ取ったのか、見れば小学生たちがボロボロと大粒の涙を零している。


僕は、全てを放棄して大声で泣いた。
静かに呼吸していたアブラセミが、死骸に変わっていた。



END.