「開けるな。危険だぞ」
「うっ臭っ何コレ!」
レディは開けた扉を即行で閉めた。異界の臭いがした。
「だから言っただろう」
廊下の突き当たりにあるドアを閉めながらバージルが言った。自宅だというのにスリッパは履かない主義なのか、革靴の底が鳴る。そう言えば、ダンテも室内で革靴を履いている。
「馬鹿の部屋だ。馬鹿がうつると困る」
バージルはダンテの部屋の前からレディを遠ざけた。
「なんであんな、」
「臭いの成分か?血と砂と、汗だ。奴の」
「洗濯物かよ」
「一緒に下着を洗いたくない」
「年頃の娘かおのれは」
まったくもーしょうがないわねー。
レディは未だ刺激臭によって麻痺した鼻を押さえながら階段を下りる。バージルが続いた。
「何が『俺の部屋使って良いよ』だよ。掃除してから言えってのよ」
「無理に泊る必要ないんじゃないか?様子を見にくるだけでいいだろうに」
レディはダンテの留守を任されている。彼の最後の言葉はこうだ。
『最悪帰って来れないかも知れねーから、バージルを頼む』。
日本に行ったまま消息を絶った彼の代わりに、レディはこの家にいる。
「バージルが寂しいかなーと思って」
「誰が?俺が?馬鹿な!」

 

 

 

「確かに、あの馬鹿がいなくなってからもうすぐ一ヶ月。ずっと離れて暮らしてたあんたたちにはどうってことない時間かもね」
リビング兼事務所はシャッターが下ろされたまま、バージルたちはキッチンでコーヒーを啜っていた。カウンターキッチンの内側にバージルが座っている。定位置らしい。
「・・・」
「アタシも心配してんのよ。これでもね。だってあの男がよ?刺しても撃っても死なないあの男が、帰れなくなるってどういう状況?」
「さあな」
「もう一つ心配」
「何だ」
「アンタの、その家族への『無関心』さ」
「・・・余計なお世話だ」
フン、とそっぽを向くバージル。
「そうね。大きなお世話だわ。でもそのポーカーフェイス、ダンテが死んだとしても崩れないとしたら、問題よ」
レディは仏頂面をびし、と指して遠慮なく言い放つ。
バージルは自分を突き刺す指の先を少し見て、困ったような顔をした。そうは言っても、ほんの僅かに眉を寄せるだけで、知らぬ者が見れば分からないほどではあるが。
「顔に出ないだけで、」
バージルが言う。
「顔に出ないだけで、心がどうだっていうのはおかしいんじゃないか。俺が言うのもなんだが」
自分なりに案じてはいる、と。
「・・・おとうとは、そんなにどうでもいい?」
しかしレディは許さない。合わせようとしない視線を引き戻すようにバージルを見上げる。
「私にはソレは効かないわよ、バージル」
心にもないということは、その安定しない視線がゆうに語っている。
「嘘、一般常識、体面。全部あなたの十八番なのかもしれないけれど、私は騙せない。あんたはダンテを、」
「・・・ああ、そうだな」
少しの間をおいて肯定したその声は酷く単調で、瞳も揺らいでいなかった。
それを聞いて、レディは腕まくりをする。

 

 

「で、なんでそうなる?どうぞ」
通信不調のザザ、という音の上に乗せられたくぐもった声はマスクが原因である。
バージルは腐界(=ダンテの部屋)
の中、埃の吹雪の真っ只中でトランシーバのスイッチを押した。
間もなく、雑音とともにレディが応答する。
『お兄ちゃんでしょ。どうぞ』
ザザ。
クローゼットは空いたまま、シートの掛かっていない非シーズンものがうっすらどころではない埃を被っている。
一ヶ月もの間(あるいはもっと)
締め切られた空間はカビの臭いがした。
 
「意味が分からん。どうぞ」
ザザ。
『意味なんて後付けされたものでしかないのよ。どうぞ』
ザザ。
ベッドの上には散乱するエロ本とトランクスとゴム。何故かブラジャーまで落ちている。
壁に掛けられた的はダーツ用なのに、何故か弾痕が複数残っていた。
勇気を持って一歩踏み出せば、乱暴に修繕された床を見事に踏み抜き尻餅をついた。
「・・・無茶苦茶だ」
いろんな意味で。同じ家とは思えない。同じ間取りのはずなのに頭痛がするほどの閉塞感。眩暈より、絶望の方がダメージとしては、大きかった。バージルは反射的に通信スイッチを押してそう呟いた。
ザザ。

『ベッドで寝たいんだもん。どうぞ』

 

 

「結局お前の都合でしかないのかああああ!!」

 

 

キッチンで二杯目のコーヒーと、勝手に見つけたドリトスの封を開けたところでトランシーバと同時に上から絶叫が聞こえた。バリバリと安いスピーカーの音が割れる。
「トランシーバの意味が無いじゃない。どうぞ」
全く意に介さずレディはトランシーバで応答した。
『・・・』
ザザ。
言葉も無い、ということらしい。
「えーではまず、洗濯物は渡したゴミ袋に入れてください。どうぞ」

 

二十秒ほどの沈黙の後、雑音に乗ってえらく低音な『ラジャー』の声がした。



* * *

誰かがノーブラで帰宅したらしい。