ヘックシュン!ズズ、ズビビビー。
本日三十六回目のくしゃみと二百二十五枚目のティッシュペーパーを消費したところで相棒に上から水をぶっ掛けられて死にたくなった。
「……ナンデスカ?」
「暑いんでしょう」
全く悪意の無い、寧ろ善意の所業を呪う。俺は今まさに風邪を引いているのだ。熱もあるのだ。喉も痛いし今巷ではやっているインフルなんとかという奴かもしれないのだ。
愛が無い、とは思わないだろうか。
開けて未だ何枚も使っていない箱ティッシュを昇天させたトリッシュは空になったバケツを片手にキッチンにとっ返してった。このままじゃ俺は十中八九死ぬ。
稀代のデビルハンターの死因が肺炎なんて、地味で断固反対だ。
仕方が無い。俺は重たい身体と軋む節々にうめき声を上げながら黒革の椅子から立ち上がった。死ぬほどだるい。ヘックシュン。三十七回目。
「トーリーーッシュ」
バシャアアアン。
ドアを開けた途端の不意打ちだった。意識が一瞬の内に遠のいてもう説明するほどヒットポイントが残っていないことを確信する。
ああ母さん。今そっちに行くよ。

目の前が真っ暗になった。




「ごめんなさい」
「……………………気にするなって」
「何そのすっごい間は」
半眼で睨みながらもトリッシュが氷嚢を額に乗せてくれた。俺が持ってこさせたのだが。
「物凄い熱かったから、冷ましてあげた方がいいと思ったのよ」
「何も水ぶっ掛けるこたぁねーだろ」
まあこれも勉強だろうが。俺は憮然とした面持ちを崩すことなく思う。
人間は病気にかかるってことと、病人に水をかけてはいけないってことが分かってくれればこの際オーケイとしようじゃないか。
「まあいいや。俺はちょっと寝るけど。…ああ、今日は休業だから。電話線切っといてくれ。五月蝿くて起きちまうから」
グシュ。ビビーム。
山盛りのゴミ箱に新しい紙くずを押し込む。
万が一にもうつったら困るのでトリッシュには出ていってもらう。申し訳なさそうな目で見られて罪悪感が湧かないことも無い。ごめんな。





仰向けに寝ると咳が酷くなる事を始めて知った。
横になって枕元には箱ティッシュを待機させている。
そのまま結構寝たと思う。
喉が渇いたのとトイレに行きたいので再び目が覚めたときにはもう夕方というよりは夜に近く。目を凝らして時計を見れば20時だった。なんだ、もう完全なる夜じゃないか。
部屋を出て二階は兎も角一階も暗くておや、と思った。店開けるなといったのは俺だから事務所が暗いのはまあ分かるとして、キッチンにもいないとは。
出かけたのか。
出かけたんだよな。
感覚を鋭くして気配を探る。目がいつも置いてあるモノを確認してまわる。
「……」
アイツがここに来て買い与えた服やら得物やら色々。一式。つーか全部。
無い。
黒く重く、ドロドロした考えがゆっくりと頭をもたげた。
いや、いやいやいやいや。
そんな、まさか。
ないないアイツに限って、そんな。
部屋がやたら広く感じるのも天井が高く感じるのも世界中で自分一人きりになったような感覚も、気のせいのはずだ。
俺は間抜けに鼻をすすった。餓鬼のように途方にくれた面持ちで真っ暗な部屋ん中。
『ごめんな』
思っても口に出さないなんて、だから男は馬鹿なんだろう。
熱いような寒いような、鳥肌が立ちそうなほど何かに引っ張られてかき乱されているような不安定。
「……トリッシュ?」
今の俺は捨てられた旦那か親と逸れた餓鬼か、どっちなんだろうか。
どっちだったら彼女が帰ってくるのだろうか。






「仕事?」
「ええそう」
メタボリック症候群世界代表こと、仲介屋エンツォ。
彼はまさにその贅肉の根源であるビールをジョッキでオーダーしたところだった。
その向かいに仁王だっている金髪の絶世の美女が歪な形の大剣を背負いしかも拳銃を二丁腰に無造作に差しているといういでたちの、トリッシュだった。
真意を見抜こうと彼は見上げるが、シャネルのサングラスが見えただけで終わる。
「えーと、何、喧嘩したのか?」
まあ座れよ、と向かい側の席を勧める。トリッシュは少し迷って背負った大剣を床に半分ほどブッ刺してから腰を下ろした。
「違うと思う」
「思う?」
「ダンテ、ビョウキで」
「えーと」
話が見えないエンツォ。助け舟を求めて視線を彷徨わせるが無論誰も助けてくれない。
「病気って言っても色々あるよな」
「鼻から水が出て時々変な叫び声を上げるの」
「えーと、風邪かね?そりゃ」
「違うわ。ビョウキだってば」
「ビョウキの中の風邪ってやつなんだよだから」
運ばれてきたジョッキを煽りながら大丈夫大丈夫と手を振った。
「アイツ、年に二回は必ず風邪引くんだよ。意外にデリケートなのな」
「そうなの」
「それで、ダンテの風邪とお前さんの仕事と一体何が関係しているのかね?」
トリッシュはサングラスを取った。漸く拝めた美女の瞳を見て、エンツォの長年の経験で培ってきた情報屋の鼻がひくついた。
「いや、それはまあいいや。何か紹介してやらぁ。それで美味いもんでも食わせてやんな」
アイツは俺のお得意様だから早く良くなってもらわねーと困るしな。
エンツォはポケットから紙を取り出した。胸ポケットに収めていたペンを取り出してその紙にさらさらと必要事項を書き込んでいく。
差し出せばトリッシュは紙をろくに確認もせずポケットにしまった。
「感謝するわ」
「ちょっと待った」
腰を浮かせかけたトリッシュを呼び止めてメタボリック症候群世界代表こと、情報屋エンツォがにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「お前さんはダンテの姉さんかなんかかい?」
「え?」
これにはトリッシュも驚いたように目を見開く。機械のような無表情から一変感情豊かな女の顔が出てくる。エンツォはこのとき初めてトリッシュをいい女だと思った。
「違うのか?オカシイなー」
「どうして?」
「へ?」
「どうしてそう思ったの」
再び腰を下ろしてエンツォを見据えるトリッシュ。
「悪かったよ」
「私はどうしてと聞いているのだけど」
エンツォはばつが悪そうな顔をした。そしてジョッキを仰ぎ泡の消えたビールを全て飲み干す。
「…お前さんと奴さんの目がそっくりだったからよ。ほら、おれっちは一応情報屋だからな、人と人の関わりってもんには五月蝿いのよ。ダンテは昔からかなり難しい奴だったし、あれの過去なんてのは」
「…お金も出して知りたいと思う人が沢山いると」
「それもある。あるがちがう。俺が最初に面倒見てやったのなんでもうずっと昔の話だけどよ、名声もねえ実績もねえ洟垂れの小僧なんてな、誰も雇いたかねえだろう。今でこそ事務所なんて借りて一丁前の面してるけどよ。そりゃあ溝の水啜るような人生だったのさ」
そんな奴によ、肉親がいてみろや。こんな仕事してる奴なんて殆ど家族なんていやしないんだ。それがどんだけラッキーでハッピーなことか分かるかい?
「……まあそれも違うってんだったらぬか喜びだったわけだが」
「姉さんて言うのは」
「アイツは器用で根は甘垂れだからな。二番目のキャラだ。一番上って言うのはもっとこう…鈍臭くてぶきっちょなんだ」
「……」
まあ、理論はともかく結果的には間違ってなくは無い。
「…言うなよ」
「言わないわ、…弟にはね」
トリッシュは再び立ち上がる。床に突き刺さっているスパーダを抜き取って背に収める。
サングラスを掛けながら指で挟んだ紙をひらひらとさせてThanksと言った。とてもダンテに似ていた。
「……」
エンツォはだらしなく口を開けたまま。
トリッシュはその美しい唇をニイ、と三日月の形にした。
そして踵を返して振り返りもせずに店を後にしたのだった。
が。
「ごめんコレなんて書いてあるの?」
二秒もしないで戻ってきたトリッシュがそう聞いてエンツォが椅子から転がり落ちた。
読めないなら最初からそう言ってくれ。


18時半。
間もなく街は夜に入る頃のことである。






まだ起きてないのだろうか。もうすぐ21時を回る。
真っ暗な事務所の扉を蹴り開けた。両手が塞がっていたのだから仕方がない。
トリッシュの右手にはスーパーの袋が。もう片方には恐ろしく質のいいバッグが握られている。
バッグは依頼のあと、帰り道で目に留まったものを買った。店名は良く見ていなかったが、BOTTEGA VENETAというらしい。結構可愛かったので、また買おうと思った。
バッグのお陰で報酬の半分が吹っ飛んだが、薬を買うのには十分だった。
薬と、彼の好きな苺とジンを買って帰ってきたのだ。美味いものを食べさせるために。
入ってすぐに黒いものがにゅうっと伸びてきて羽交い絞めにされた。
「………おっと」
ポリの袋の中で栄養ドリンクとジンのビンが不穏な音を立てたので慌ててバランスを取った。
羽交い絞めにしているそれは考えるまでもなくダンテだった。暗くてよく見えないが、銀髪が寝癖でくしゃくしゃである。
「あーーーーー良かった!おかえり!何処をほっつき歩いてたんだお前!」
あー良かった。死ぬかと思った。捨てられたかと思ったぞコラ。
撃たれても刺されてもそう簡単にはくたばらない男が何を言うやら。
「何処にも行きゃしないわよ。馬鹿ね」
左手を伸ばして照明のスイッチを探す。途中で肩からバッグがずり落ちたけれど腕で支えて、スイッチをバチンと押した。一気に光に満たされた事務所には焦燥と発熱で草臥れ果てた男が自分を抱きしめているという微妙な状況があった。そう考えたら、トリッシュは急に馬鹿馬鹿しくなった。
そうね。やっぱりそうなんだわ。このポジショニングが間違っていなかったということを一人納得する。
そうと分かれば次の行動は考えるまでもない。
ゴトリとスーパーの袋を床に置き、ダンテを抱きしめ返した。そしてポンポンと背中を叩いてやる。
「ごめんな」
「そんなことじゃ怒らないわよ。家族だもの」
姉さんを信じなさい。と言ったらダンテはとても珍妙な顔をした。
身体を離して信じられないといった表情。
え、俺が弟なの?
当たり前じゃない。アナタがお兄さんって顔?
「マジでか」
「マジですよ」
それよりダンテ、風邪は?
寝たら大分マシになったよ。
そう。イチゴ食べる?
食う!
……。
……。
少しの間。そして揃って大笑い。
「ホラ見ろ、なんか弟っぽい」
「なんか腑に落ちねー!」
ぎゃーすかぴーすかやいのやいの。
そんな調子で二人はキッチンに消えた。
それは旦那と奥さんというより、母と息子というより、
やはり姉と弟であった。



p.s.
「ところでそのバッグなんだが…」
「買っちゃった♪」
「『買っちゃった♪』じゃねえよ!幾らしたんだ一体」
トリッシュはダンテに耳打ちする。ダンテは大きく目を見開いてジントニックを噴き出した。
「春の新作、お取り置きしておいてくれるって」
「は?何、なんでそうなるんだ?!」
「あざーっす!」
「先にお礼を言うんじゃねー!」