「取り敢えず北上するわ。シアトルからバンクーバーへ、そこからフェリーでアラスカまで行ってみるつもりよ」

「そうね。トランジットからグレイハウンドが出てるから」

「危ないかしら?でも大丈夫よ。私だもの」  

「オーロラが見てみたいの。今はシーズンじゃないのかしら。でも、そうね…ロッキーにも足を伸ばすし、そこから歩いてみてもいいわ。そうしたらきっと着くころには見ごろかも」

「雪が沢山降るのよね。スキーっていうの?ウィスラーには回れるかしら。やってみたかったの。面白そうじゃない?」  

「…ダンテ?」

 

 

 

 

 

ガサガサした空気に僅かではない霧がどうも大気を不安定にさせている。
吐息は依然白く、しかしもうすぐそこまで春はやってきているはずなのだ。
シャッターとフェンスの二重構造でなければこの国の、それもこの区域では強盗に入ってくださいと言っているようなもので、地元民だろうが観光客だろうが夜の8時を過ぎれば人気は無いに等しかった。
霧が漂って石畳をうっすらと湿らせている。じゃり、と小石がブーツに踏みつけられて嫌な音を立てる。
先を行く相棒は楽しそうに次の旅行プランを話して聞かせてくれているが、右から左へ通り抜けていくばかりでろくに相槌も打てていない。

「…ダンテ?」

何の返事もないことに心配したのか、或いはそれを咎めたかったのか相棒が振り向いた。
眉間のしわは非難よりもやはり心配の方で、少しでもネガティブな方へ捉えていた自分がいた事を後ろめたく思った。

「あ?ああ」

これでは何の返事にもならないと知りながら、どういうわけかそれ以上言葉にはならなかった。

「どうしたの?また『スカ』だったから機嫌が悪いの?」

「…ちげーよ」

「違うの?」

無垢という言葉は好きではない。それはつまるところ『無知』であり『幸福』であるから。
しかし彼女は正真正銘の『無垢』そのものだった。
右も左も分からない、ということは自分にもあった。しかしそれはもう思い出せないほど遠い昔何処かにおいて来てしまったのだ。
真っ直ぐな瞳に邪気は無い。皮肉ではなく、揶揄でも無い。

「それも、ある」

素直に認めたのは、そんな問い掛けに見栄を張り強がったところで結局見透かされてしまうような気がするからだ。

「…もうすぐ一年が経つな、とか考えてた」

忘れないように、しかし思い出さないように。飲み込まれないように、しかし断ち切ってしまわないように。
一年が経ってしまった。

「色々有ったような気がするんだけど、改めて思い出そうとすると全然出てこないんだ。お前みたいに沢山楽しいこととか面白いこととか、あったと思うんだけどな」

相棒が一人成長していく。

「俺にも何か、話せるようなことが無いかと。その…色々聞いた話とか。でも何にも思いつかなかったんだ」

自分はその間、一体何をしていた?
会話をするのが久しぶりすぎて単語が出てこない。頭をポリポリと掻いた。舌っ足らずなガキのような物言いでなんだか泣けてくる。

「女はね、『口から先に生まれてくる』んだって。ダンテ知ってた?」

「…いや」

「私は悪魔だからそうじゃないとでも?」

「……いいや」

「そうね。そういう差別は良くないわよね。私はもう『女性』だわ」

 

相棒はにっこりと笑った。

「早く帰りましょ。今日は寄り道しないで」

 

 

What do you want to say?

I wanna say "please stay with me".

あの日を思い出さないように。

あの日を忘れてしまわないように。

 

 

***

 

春の空気はしっとり気味。