それは青々と満ち広がる生命。
盆暮れの日差し。
入道雲。

あの日、あの場所。

君といた夏の香り。






西洋李-Plum-







寂れたシャッター街を抜けて干からびた川に掛る橋を渡る。
遠い昔、まだ町が活気に溢れていた時代に幾度となく氾濫したその川は、下水が整備された今ではただの溝に等しい。
この川は支流である。そう遠くでは無いところに本流の富士川が流れており、そこは多少は整備されはしたものの、昔と然程変わらない風景が広がっているはずだった。

(そういえば、)

大分前に高速道路を造るとか造らないとか、そんな話を聞いたような気がする。
とすればこの田舎にも都市化の波は来ているのだ。鳶や雉がいなくなるのも、遠い未来では無い。
改めてそう考えれば、甲府と身延を結ぶバイパス故に、車の数だけは都会に負けていない。
田舎の過疎さと都会の排気臭さ。
この町はそんな不敏な町だった。

橋を渡ったら直ぐに左折。
アスファルトで表面を固めただけの粗雑な道をぐんぐん進んでいく。
大丈夫、この車は前輪駆動だ。
ほどなくして道路は山道になった。戦後の製作によりがむしゃらに植えられた針葉樹と、元々そこに生息していた広葉樹が奇妙な生態系を作り上げている。
アクセルをいつもより深めに踏んで、勢い良く曲がりくねった山道を行く。

グオォン!

強く踏みすぎてエンジンを噴かしてしまい、私は慌ててアクセルを弱めた。



季節は夏。
遥か下方の農家は西洋李の出荷に勤しんでいることだろう。
アブラゼミの鳴く声が車の中ですら聞こえてくる。








『……こうやってちょっと傷が付いてたりすると、都会の人ってすぐ買うのをやめちゃうのよ。だから農家の人はこうやって格安で通りがかった人が買えるように、無人販売所を置いたのね。見た目が悪くても味は変わらないから買っていく人が多いわ』

あの時もこんな、暑い日だった。
都会育ちの私に向かって、二人では食べきれそうにない西洋李を大事そうに抱えて笑う君は私を見、「暑さで痛んでたらどうするんだ」という顔をしていると言ってまた笑った。







一度森を抜けると、小さな農村に入る。果樹園を営む家が殆んどで、多くは西洋李や桃、葡萄などを栽培して生計を立てている。
道端に車を停めて、外に出る。甲府盆地特有の高温多湿に思わず顔をしかめてしまう。昼を少し過ぎた辺りの今、辺りには人は愚か猫の一匹すらも徒に出歩いたりなどしないものだ。ただ、蝉だけは例外のようで、耳に障る大合唱で夏を謳歌している。

木造…と言えば聞えはえが、詰まるところはある物で突貫で作った無人販売所。途端の屋根は大きく破れているが、もう随分と昔からそのままのようで、破れた部分から錆びてきている。
台の上に無造作におかれた西洋李は大体十程ずつビニール袋に入れられており、その多くは傷持ちであったり、微妙に不格好であったりなどして出荷出来なかった物たちだ。
劣化して所々削れた木の柱には、油性マジックで『一袋200エン』と書き殴ってある。その下には、流石に錠の付いた箱。小銭を入れるために小さな穴が空いている。
私は小銭入れから百円硬貨を二枚取り出すと小箱に入れた。先客がいたのか、小銭がちゃりちゃりと音を立てて箱に納まる。
それを聞き届けてから、品物を物色し、なるべく熟れて形の良いものが入った袋を掴むと、私は足早に冷房の効いた車に戻った。
助手席に西洋李を置く。ソルダムという、青い皮だが中身は太陽のように紅い品種だ。







『ソルダムって言うのはね、何処かの国の言葉で太陽という意味なんですって』

白いブラウスが汚れないように妙な姿勢で、西洋李をかじる君。
家に帰って冷蔵庫で冷やした方が美味いだろうに、「ここで食べるのが良い」といって聞かなかった。
お陰で白いブラウスにはやはり赤い染みが付く事になる。







運転席に戻って、しかしエンジンはアイドリングしたまま。サイドブレーキを引いているためにオートマチック車とは言え勝手に動くことはない。
車の通りは皆無。
誰か来たら畦道にでも避ければよかった。
ぼうっと南アルプスの峰を見上げる。
こちらと、向こうの天気が良い日だけ見ることが出来る南アルプスの山脈には、夏だと言うのに雪化粧がなされている。雪なのだが、白粉の厚化粧のようで暑苦しいと思った。
少し視線をずらせば富士山が堂々とそびえたっている。
富士山は鋭角ではない。そう言ったのは誰だったか。確かに富士は鈍角である。麓に広がる青木ヶ原樹海、山中湖。鋭角ならば無理な話だ。

私は再び車を降りた。
今度はエンジンも切る。ブルブルとうるさかった音がなくなり、いきなり静寂が訪れた。





『鳶って、他じゃあんまり見ないわよね。
ほら、ああやって弧を描いてるときは獲物を狙ってるの。…今だと何食べてるのかしら?兎?ネズミ?』


あちらこちらで弧を描くように滑空する鳶を見上げては、そんなくだらない疑問を思い付くまま口にしていた。
どう思う?と聞かれて、大体はハア、とかフウン、とか適当に流していたりして、よく面白くなさそうに口を尖らせていた。







日が傾いてきたのか、ややオレンジがかった色をした太陽が夕方だと言うことを暗に告げている。
案の定、腕時計の針は既に五時半を回っていて、日の長さが時間感覚を狂わせていることを改めて実感する。
私は千切れ雲が多くなった空を一度だけ見上げると、再度車に乗った。
エンジンを切ってしまったために、先程よりは暑いような気がする。
西洋李は大丈夫かと思って袋を見やるが、すぐに目を離してエンジンを掛けた。多少は大丈夫だろうと思う。







ふと。


『なーに言ってるのよ。ここで食べるから美味しいんじゃない!』

一つだけ食べてしまおうか、と。
あのときの君のように、洗いもしないでかぶりついてみようか。そんな思いに捕われる。
どうせ十個は多すぎる。
一つくらいなら…。








私はサイドブレーキを解除して、ギアをパーキングからドライブへとチェンジさせた。
ゆっくりとアクセルを踏んで発車させると、手近な畦道で方向転換。元来た道を引き返す。





やはり帰ってから食べよう。
君と、子どもたちと。
一緒に。






其れは青々と満ち広がる生命。
盆暮れの日差し。
入道雲。

あの日、あの場所。

君といた夏の香り。






fin.